罪深さという表現は強すぎるけど、敢えて使う。

これに関してはある意味「罪」というか

ものすごい根深い問題だと思うから。

  

今回、南米を色々と旅して

サンパウロやブエノスアイレスなどの大都市では

必ず立派な国立美術館があって

そこにはミロやモネなど

『ホンモノ』の作品がありました。

久しぶりにたくさんのアートに触れて満足して、ふと

『あれ、ボリビアにはこういうアート作品がないな』

って思ったんですよね。

海外に行ったことがある数少ないボリビア人の同僚に

『ピカソの作品見たことある?』って聞いても

『ピカソって何?』みたいなことがあって、

あれ?国立美術館で見ないの?授業でやらないの?

って疑問だったけど、そもそもボリビアには

歴史的なアート(ホンモノ)が存在しない。

謎のレプリカはたくさんあるけども。

  

で、その時思ったのが

『ホンモノを知っていることの素晴らしさ』よりも

『ニセモノが恥ずかしくない罪深さ』なんです。

つまり、ホンモノを知らない、見たことないから

ニセモノを持っていることに対して

なんの抵抗もないし、恥ずかしさも、迷いも皆無。

例えば今、ボリビアではバンクリのお花モチーフの

ピアスやブレスレットが大流行で

市場でもスーパーでもアクセサリーショップでも

どこでも売ってる。

でも、そのデザインの元が「バンクリ」で

それがパクリであることを知っている人は

殆どいないから

「お花のアクセサリー、かわいい〜」だけになる。

パチモノを身につける恥ずかしさ抵抗感は皆無だし

そもそもパチモノが恥ずかしいってことすら知らない。

  

それはそれで幸せなことなのかもしれないけれど

長い歴史を重ね、さまざまな文化の中で熟成された

アート作品からしか摂取できない知識や刺激って

絶対あって。

それを摂取する機会がボリビアではゼロなのかと

気づいて愕然とした。

  

いわゆる「教養」というものが育まれないし

先人たちの知恵や経験を

コツコツと積み重ねた結果の「今」という発想がない。

これが計画的なクリエイティブができず

全てにおいて行き当たりばったりで済ませることに

繋がっているのかなぁと思ったり。

全てのアート作品にはストーリーがあって

それと同様に私が日本で番組を制作していた時は

とことん考えて、考えて、その思考の構築の末の

アウトプットが求められていたけれど

ボリビアでは表面的な作業で終わり。

  

なんかボリビアの制作活動で抱えていた

ジレンマみたいなものが自分の中でストンと

理解できた気がしました。

  

ホンモノを知らないから

それがニセモノであることにも気づかない。

ニセモノであることに気づかないから

ホンモノに宿るストーリーも知らない。

これって「教養」という意味では

割と大きな問題だと思うんだよな。

まぁだからと言って、

私に何ができるのかと言えば

たぶんなんにもできないんだけども。

教養や文化ではお腹は膨れないし

そんなこと言えるのは、結局やっぱり

先進国の人だけだと言われてしまいそうだけど

人生を豊かにするためには必要だと思うんだよね。

うん。

  

non。