父が千葉県がんセンターの緩和病棟に入院したのが11月15日(金)。
ちょうど同じ時期に私が溶連菌というワケのわからない細菌に感染。
完治してようやくお見舞いに行けたのが11月18日(月)。
18日の週も木曜日以外は毎日お見舞いに行っていたのですが、
この時はまだできる限り仕事もやっていました。
父の状態も非常に安定していて
『本当に2週間でどうこうなっちゃうの…?』という気持ちと
『覚悟を決めなければ…』という気持ちが半々だった覚えたあります。
しかし、事態が一変したのは11月27日。
早朝に父の容態が急変して、危篤になりました。
その時の様子はこちら…『血の気がひいた。』
ただ、27日も父は驚くべき回復を見せ私たち家族を安心させました。
ということで、27日は東京の自宅に戻り翌日からの生活に備えました。
28日。午前中からお昼過ぎまで
どうしても済ませてしまいたい打合せを入れ込み
仕事を断る方にはきちんと挨拶をして、
夕方、東京を出発して父のいる千葉の病院へ。
この日から、仕事よりも父を私は選択しました。
でもって、旦那ちゃんのこともこの日から放置。本当にごめんね&ありがとう。
夕方5時半すぎに病室に着くと、仕事を終え一足先に着いていた妹と合流。
母が一度、自宅に戻っていたので妹と2人でお留守番。
父は薬が効いているのか、とにかくよく寝ている。
朝は座って雑誌を読んだりしていたと母が言っていたけれど、
私と妹がいた夕方には、ただただ寝ていて。ベッドの横でボーッとする私たち。
夜7時ごろ、母が戻ってくると急に目が覚める父。
なんだろう、この時から『夫婦の絆』とか『愛の深さ』っていうのが
本能的なものであることをまざまざと知る。
母が戻ってきた途端、父が『座りたい』と訴えるので体を起こして座らせる。
(父は咽頭癌のため去年、咽頭を摘出しているため喋ることができません。)
すると、筆談したりティッシュでお気に入りの鏡を磨いたり、
時計を磨いたり、ペン立てからペンを出したり入れたり。なにやら大ハシャギ。
このとき既に父には『譫妄』という意識障害の一種が発症していたので
子供に戻ったり、急に怒りっぽくなったり、
非常にテンションが変わりやすい状態に。
この夜はどうやら『子供モード』だったらしくて、
母に甘える父。まるで子供みたい。
鼻水がでてきたら、母に鼻をふいてもらって満足気。
水も母からだと安心してよく飲む。
それにしても、私と妹の時には寝ていたのに、
母が来た途端、起きて甘えるというのは
やっぱりすごい。
病院に泊まるつもりだったけど、妹が夜勤明けで運転するため
心配なので、この日は一緒に車で実家に帰ることに。
自宅に戻って父にメールしたら、返事がきてビックリ。
あまりにもビックリして母に報告したら『それは私が手伝って打ったのよ』と
種明かしをされて苦笑い。そりゃ、そうだよね。でも、嬉しかった。
この日の病室滞在時間は3時間程度。
母はこの前日から、最後までずっと泊まり込みでした。
写真は父の病院に行く途中で電車から見た夕陽。すごくきれいだった。
non